第14回 日月会建築賞 審査委員長講評-outside

    第14回 日月会建築賞 審査委員長講評-outside
審査委員長:小泉一斉(29期)

講評文総評は、特に賞を逃した学生諸君へエールを送るつもりで書いた。しかし、「自分の作品の価値に自覚的であれ」なんて言われて、そんなに簡単に自覚できるものだろうか。
『われわれの社会は、今、終わりということへの感覚を、鈍化させてきている。終わりの感覚が終わったときに、偶有性への思い(他でもよかったのではないか、他でもありえたのではないか)がいつまでも解消されず、現実を「必然(これしかないこと)」として引き受けることができなくなるのだ。』
これは、相対化する世界の「終わりの感覚」について大澤真幸が語ったものである。
次のはじまりに向き合うために、学生は、きちんと前半課題を終わらせることができただろうか。
私は、「はい、これでおしま〜い!」と高らかに宣言できただろうか。
思えば私は、賞にノミネートされながらこれを逃した学生にコメントしていない。
私は、そうした学生に対してきちんとコメントをし、学生は、各自の作品の価値について自覚し、そうすることで「第14回日月会賞をきちんと終わらさなければならない」と勝手に思い立ったのである。

課題を如何に解釈したか。解釈は、ジャンプして実体としてアウトプットされる。そこには、作家個々人が決断主義的に「価値」だと認めた「何か」が立ち現れる。私は、この「何か」をきちんと言葉として現出できるか、という一点において作品へできるだけの内在を試みる。しかし、そうして私が現出した「価値なる何か」は、もはや作家が意図した「価値なる何か」とは異なるものである。つまりズレが生じる。このズレをまたいで作品と批評が交信するとき、ここに「価値」は超越して強化され、共有の度合いを高めることが出来るのではないか、と、私は考える。

(以下作品リスト順)
課題「グラフィックでつながる都市の複合施設」
■ 佐藤有記 「透明な鉄と不透明なガラス」
■ 鈴木将平 「フウケイガラス」
■ 豊田正義 「Plus One」

グラフィックと建築が良好な関係を結ぶのにまず思いつくのは、ファサードの処理であろう。事実、学生の作品には、ファサードについて言及しているものが多数であった。

「透明な鉄と不透明なガラス」は、熱によって色を変える塗料の塗られたガラスと鉄板のファサードが、内部の不可視を外部に表象する点がユニークだ。境界線自体ではなく、これを隔てて内部と外部が交換していくことにまで思考を広げているからである。柴久喜航氏の「昼夜反転」も同様のアイディアがみられる。

「Plus One」は、様々なガラスが彩るカーテンウォールが特徴の端正な作品である。対して「フウケイガラス」は、ファサードについて言及しながらも、作者の興味の対象は、造形のダイナミズムにある。
趣の異なるふたつの作品であるが、今後、嗜好性を超えて高次の批評性を実現するためには、過去の(建築)理論を学び、デザインを徹底させることが重要になる。空間と相補的に関係を結ぶこうした積み重ねが独創性を生むからであり、ふたりは、そっちを向いていると思うので。

今回の学生作品では見ることが叶わなかったが、オーバーレイという手法も効果的ではないかと私は思う。表参道のアパレルビルのいくつかに見られる、ファサードを二重にして立ち上がる厚みのある立面、というのは、いささかベタな例かもしれない。しかし、Bernhard Hoesliが解いた、ル・コルビュジェのピューリズムの絵画とガルシュの住宅の類似性(面のオーバーレイによる空間構成)や文字(言葉)が透明な板の上で重合する詩人瀧口修造と造形作家野中ユリの共作「不知抄」などは、グラフィカルな表現が空間を創造している。
何を言いたいかといえば、もう一度空間について(それは現代では、建築をつくるデータベース化されたひとつの要素でしかないが)考えてみるのも良いのだろう、ということである。

課題「グラデーショナル」
■ 大重雄暉 「天日家」
■ 田中遥 「わたなべさんとボク」
■ 若林由理 「kitelekhos」

この課題は、これに続く後半課題「JR中央ラインモール計画」の習作である、と私は解釈したので、選考から外した。同課題については、講評文に記した通りである。
「天日家」は、光源なき光が場を決定し、「わたなべさんとボク」は、建築のメタファーとしての「わたなべさん」(木)との生活を物語にまとめあげた。「kitelekhos」は、樹種の異なる木の断面、その大きさの差異が、寸法と空間と生活を決定していく。
近代建築が人間を中心に据えてその合理性のもとに自然を改造していくものであるとすれば、これら3つの作品は、どれも「そこに在るもの=自然」と良好な関係を結ぶための距離について検討したものといえる。一言でいえば「そのままつかわせていただく」で、近代的言語的決定からの回避でもある。どれもよく練られた秀作といえる。
この課題は、どうしても深読みしたくなる。ミシェル・フーコーの「エピステーメー」や東浩紀の「半透明」を想起させるからだ。ポストモダン状況の進行するこの世界において、言葉と物が近代的な関係からどのように変異しているのか。それは、建築(的行為)にどのような影響をあたえ、立ち現れた作品は、どのように読まれるのか。しかし、この話は、これでおしまいである。そうした作品が既に仮に存在したとして、それを批評する眼が、今現在私に備わっていないからである。つまり、わからないということ。

課題「JR中央ラインモール計画」
■ 佐藤穂波、有宗薫子、萩谷綾香 「記憶のなかの小さな街」

高架下に機能の異なる小さな木造建築が建ち並び、街並を形成する。それらは、屋根の形状や開口部の処理、濡縁や格子等、いくつかのルールを与えられて、しかし計画が徹底されていないのか、ひとつひとつのデザインも配置もどこかルーズで愛らしい。
「記憶のなかの小さな街」とは、ノスタルジー=懐古に似ている。これを徹底すれば、映画「ALWAYS 三丁目の夕日」になり、「新横浜ラーメン博物館」になるかもしれないが、これらは脱臭されたノスタルジーである。つまり普遍世界の構築で、母系的自己承認で、結局外部を遮断したオタクの部屋に行き着く。
しかしこの作品は、そっちには行かないし、むしろ逆である。私の想像に過ぎないが、作者(たち)が行った「徹底」とは、グループ内で共感できる記憶のみを拾いだし、曖昧な記憶を曖昧なままで良しとして作品に定着することだったのではないか。懐古的要素は、結果抽出された記憶の断片でしかない。

 ■ 山高大介 「呼吸する建築」

建築がその実体を弱めて、高架という土木デザインに寄り添う。具体的には、高架を建築として捉え、下部の空洞立面にガラスの扉を二重にして、その開閉によって内外部をコントロールする、というのがこの計画である。内外部が繊細にして緩やかに交換する楽しさがあり、決して派手ではないが、着眼点の面白さがある。
「黄金町バザール」も「2k540 AKI-OKA ARTISAN」もこの計画にした方がいいのになあ、などと思いながら、しかし場所を選ばないというのは、この課題としては正解かどうか。

 ■ 大重雄暉、井上岳、清水太幹 「高架の下、丘の上」

地図を見ることが嫌いな、あるいは得意としない人が方向音痴とは限らない。優れた方向感覚、距離感、状況把握力を持つ人にとっては、俯瞰という点で一元的な、整理という点で記号的な地図の情報など、役に立たないということだってある。
造成してお山をつくって、その頂上から高架の線路を走る電車と国立の街並を臨み、高架下においては、子供の背丈程の洞窟を含む緑の公園が広がる、というのがこの作品である。スケールの横断と立体的な視点は、高架という境界線を巻き込んでわくわくする「場」へと昇華する、のだろう。たぶん。
「言語が邪魔である」はよいとして、では、恣意性がコミュニケーションを実現することは、どこまで可能であろうか。

 ■ 佐野睦 田中遥 「家型×3」

株式会社JR中央ラインモールの中央ラインモール基本コンセプトに「ランブリングウォーク(回遊空間)」がある。この計画では、ランブリングウォークを計画の骨格におきながらより強い回遊性を持たせて、これに様々な機能を持った小さな家型の小屋を沿わせている。
既存計画をうまくプロットしているのが良い、使われ方も想像できる、しかし使わせ方が抜け落ちている。「計画」と「反計画」の間を揺れながら、それでも僕らは、計画しなくてはならない、ということですね。

課題「神楽坂プロジェクト」
■ 石井麻美 「繋がる空間」

 「繋がる空間」の計画上の破綻は、むしろ「繋がらないこと」へのいらだちを際立たせる。敷地を分断して、結果計画建築を二分して天にのびる鉄砲階段は、屋上で行き止まる。この下を通る路地は、わずか幅1mで、階段を迂回しなければならず人の進入を拒む。二分された計画建築は、商と住が並列するが、両者が関係を持つまでは計画が行き届いていない。
相対化する世界は、共有すべき価値を失効して人を個人のままに放置する。それは、自由で、孤独な世界だ。だから人は、過剰に「つながる」ことを求めるし、コミュニケーションの自己目的化なんてことが起こってしまう。結局その先にあるのは、自己承認の実現であろう。
この作品を、安易に繋がろうとする、あるいは繋がってしまうことへの反対命題(アンチテーゼ)として捉えると、グッと面白くなる。作者がこのことを自覚して、意図的にトラップを仕掛けられるような今後の計画に期待する。

課題「Design with Nature」
■ 安倍直人、守友磨郁、木下洋介、佐藤菜美、守永佳代 「螺旋テント」

芯棒に踏板が螺旋状に取付けられたのが螺旋階段であるが、踏板を傘の骨に変えてこれに布を張ったのがこの作品である。この作品の優れた点は、傘の骨をくるりと巻けば一瞬でテントを折り畳めること、折り畳んだテントを人ひとりで持ち運べること、そして傘を開けば自立することである。
つまり、課題に対する回答としても、アイディアでも、性能でも、極めて完成度の高い作品といえる。
この課題では、「空間を創造する」でおしまいであるが、同時に、ここでの思考訓練は、建築的行為としての空間創造の入口でもある。この作品を成立させている思考が、今後どのように建築(的行為)において発展し、展開されていくのか、楽しみである。

終わり。

 

 

   

 

 

 

 

 

 

写真はノミネート作品の一部です。ご了承ください

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